大川小、教師間の議論が原因で避難に遅れ
2011年06月05日 03:41
| 東日本大地震
<
避難開始まで40分=保護者に説明会−児童74人死亡不明の大川小・宮城
東日本大震災の津波で在籍児童74人が死亡、行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校は4日夜、同市内で、震災後2回目の保護者説明会を開いた。避難の経緯を調査した市教育委員会は、地震から避難開始まで約40分かかったことを明らかにした。
説明会には保護者70人が出席し、市教委や柏葉照幸校長が調査結果を報告した。
市教委によると、大川小では地震発生から津波が来るまで約50分あった。しかし、児童が教職員の誘導で避難を始めるまで約40分かかった。教諭が児童を校庭に集めて点呼を取ったり、一部の児童が迎えに来た親と帰宅したりした際、名簿との照合に時間がかかったという。同校は地域の避難所に指定されており、集まった住民への対応に加え、教諭と住民との間で2次避難先の話し合いをしたため、避難に手間取ったとしている。
避難は上級生を列の前にして、校舎から約200メートルほど離れた北上川の橋近くにある土手に徒歩で向かった。しかし、途中で津波に襲われ、児童108人のうち68人が死亡、6人が行方不明となった。(2011/06/05-00:15)
ソース:時事通信
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011060400324
大川小、教師間の議論が原因で避難に遅れ
東日本大震災の津波で全校児童108人の7割近い74人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小学校の保護者説明会が4日夜、同小近くの別の小学校で行われた。
市側の説明会は2回目で、市教委は、児童らが地震発生から校外に出るまで約40分間かかった理由について、教師の間で避難場所について議論になるなどしたためと説明。その結果、移動開始まで時間がかかり、避難の遅れにつながったという。
市教委によると、説明会には保護者約70人が出席。助かった児童4人と保護者が連れ帰るなどした児童20人らから聞き取った当時の様子を、市教委が説明した。
市教委は、地震直後に校庭に集合した際、教師数人が裏山への避難を主張したが、「木が倒れるので、この揺れでは駄目だ」との意見も出て議論になったとした。一部の児童は迎えに来た親と帰宅し、名簿の照合や点呼にも時間がかかったという。児童らは北上川近くの高台に避難することになったが、校外に出て約10分後に津波にのまれた。
大川小、教師間の議論が原因で避難に遅れ
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110604-OYT1T00797.htm?from=top
これは人災。
市教委が指定した避難場所は津波にやられて跡形もない。
残る選択肢は7歳の幼児多数を連れて逃げるには危険の大きすぎる裏山だけ。
教員や近所の人がどっちにしようか、迷って議論するのはごく当たり前の話。
こんな無茶な択一はない。
議論の余地なく、迷う必要もない避難場所がないところに学校を作った。
屋上に避難できる4階建て以上の校舎を作らなかった。
殆どの生徒が助かった他の学校との違いはここにある。
学校を作った市当局、運営する市教委、そしてそれを受け容れてきた
地元住民。悲劇の責任はこの三者にある。
教員は純然たる被害者。何の責任もありはしない。
<東日本大震災>津波時の避難所未指定…石巻・大川小毎日新聞 6月4日(土)2時35分配信
東日本大震災の津波で全校児童108人中68人が死亡、6人が不明の宮城県石巻市立大川小学校が、市教委に指示された津波時の避難所指定をしていなかったことが分かった。また、地震直後に防災無線が大津波警報の発令を告げ高台への避難を呼びかけたものの、避難先を巡って教員らの意見がまとまらなかった様子が卒業生らの証言で浮かび上がった。市教委は「避難所の未指定が先生たちを迷わせた一因。市教委も未指定を把握していなかった」と市教委、学校側の過失を認めた。【百武信幸】
【大川小の悲劇】東日本大震災:その時なにが…大川小、津波で多くの犠牲者
◇迷う教師、即決できず
市教委は、市内の小中学校に防災危機管理マニュアルを定め、津波時の高台避難所を指定するよう指示していた。しかし、震災後にチェックしたところ、大川小は避難所を指定していなかったという。市教委は「震災前に把握しておくべきだった。申し訳ない」と話している。
当時6年生だった女子中学生によると、地震があった3月11日午後2時46分、授業は終わっていたが、6年生は1週間後の卒業式の準備もあり、ほとんどが教室にいた。大きな揺れの後、校庭に集合し教員が点呼を取った。
市によると、防災無線放送が流れたのは午後2時52分。大川小には校庭にスピーカーがあった。中学生は「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」との無線を記憶している。その直後、悲鳴とともに子供たちから「もしかしたら俺ら死ぬんじゃねえの」「ここにいたらやばくない?」などと声が上がった。この時「山に逃げよう」という教員もいたという。
この中学生の母が車で迎えに来たのは午後3時前。車中のラジオが「6メートルの津波が来る」と流したため、着くなり6年の担任教諭に「津波が来るから山に逃げて」と訴えた。「『お母さん落ち着いて』となだめられた。子供を不安にさせないためだったのかもしれないが、もどかしかった」と母は振り返る。教員たちは迎えに来た保護者と帰る児童を名簿で照合する作業にも追われていた。
中学生は車で帰る前、学校に避難した住民と教員が避難先を話し合っていたのを見ている。「高いところへ行こう」との意見が出ていたが、避難先が決まったふうではなかったという。最終的には約200メートル西の新北上大橋たもとの交差点への避難を決めた。
校内の三つの時計は3時37分で止まっており、津波はその時間に校舎に到達したとみられる。当時学校にいた近所の男性によると、児童や先生が校庭を出て交差点に向かって裏山沿いの道を歩いていた時、前から来た津波にのまれた。とっさに裏山を駆け上がった児童たちが難を逃れた。
学校に一番近い高台は学校の裏山。なぜすぐに裏山に逃げなかったのか。保護者の多くがその1点に疑問を持っているが、詳細な経緯は不明だ。当時学校にいた教職員11人中、1人無事だった男性教員は震災後休職。4月9日の保護者説明会には出席し「校内を見回って校庭に戻ると児童らは移動を始めていた」と話した。
市の「防災ガイド・ハザードマップ」は大川小を避難所として「利用可」とする一方、高台の避難先を指定していなかった。当時不在だった柏葉照幸校長は震災後「裏山はつるつる足が滑るので階段を造れるといいなと教員間で話していた」と語っている。だが中学生の母は「子供が低学年のころから植物見学などでよく裏山に登っていた」と話し、他にも「裏山は滑らないし、低学年でも登れる」と話す保護者もいる。
記者も登ったが、低学年が登れないほど急な斜面ではないと感じた。だが、混乱状態の中、11人の大人が108人の子供全員を無事に登らせる確信を持つには、あらかじめ避難先に指定し、訓練も必要だったとも思える。
当時の様子を証言した中学生は「亡くなったみんなのためにもその時の本当のことを伝えたい」と話している。
ソースは
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110604-00000014-mai-soci
東日本大震災:石巻・大川小卒業式 伴奏予定の2人姿なく
ピアノを伴奏するはずだった大の仲良し2人が晴れ舞台に立つことはできなかった。24日あった、宮城県石巻市立大川小学校の卒業式。東日本大震災の大津波で6年生21人のうち、佐藤みずほさん(当時12歳)と加納愛香さん(同)をはじめ13人が亡くなり、3人は行方不明のまま。37日遅れの式は、泣き声だけが響いた。【百武信幸、堀江拓哉】
「卒業式で私はピアノの伴奏をします。今まで一生懸命練習してきたのでぜひ来て下さい」。みずほさんは3月2日、家族に感謝を伝える学校の催し「感謝の会」で、そう書いた手紙を母かつらさん(45)に渡した。
卒業生が最初に歌う「門出の歌」のピアノ伴奏は、みずほさんに任されていた。みずほさんは学校から帰ると毎日、練習した。「遠慮がちな性格なのに、珍しく自分から手を挙げたようで、晴れがましい気持ちだったと思う」とかつらさん。
だが、津波がすべてを奪った。みずほさんは被災2日後の3月13日、学校近くで見つかった。泥だらけのみずほさんの顔を、かつらさんがぬれたタオルでふいてあげた。みずほさんの右目からしずくがこぼれ落ちた。土混じりの茶色い涙。「あの時の顔が忘れられなくて。最後の最後、そばにいてあげたかった」
卒業式のはずだった18日、家族はみずほさんを送った。父敏郎さん(47)は「休みを取って楽しみにしていたのに、その日が火葬になってしまった」。
加納愛香さんは式後半の伴奏をすることになっていた。母美智代さん(41)は「愛香のピアノを聞きたかった。生きててほしかった」。愛香さんは6年間1日も学校を休まずに通った頑張り屋だった。伴奏と、卒業式でもらえる皆勤賞を楽しみにしていた。父美雄さん(36)は言った。「学校からもらえなかったけど、私からあの子に皆勤賞をあげたい」
2人や愛香さんの弟で2年生だった悠登君(当時8歳)ら65人が死亡、9人が行方不明になっている大川小の卒業式は、間借りしている市立飯野川第一小であった。式は午前に死亡・行方不明の16人の家族が出席。6年生の担任も津波で亡くなったため、3、4年生時の担任だった女性教諭が名前を呼び、柏葉照幸校長が家族らに卒業証書を手渡した。
みずほさんの代わりに卒業証書を受け取った姉そのみさん(14)は式の後、祭壇のみずほさんに語りかけた。「卒業おめでとう」
午後は無事だった5人のうち出席した3人が卒業証書を受け取った。
ピアノ伴奏も歌もない卒業式だったという。
毎日新聞 2011年4月24日 21時25分(最終更新 4月25日 1時31分)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/archive/news/2011/04/24/20110425k0000m040057000c.html?inb=yt
東日本大震災:母、校歌に涙 石巻・大川小で始業・入学式
東日本大震災の津波で全校児童108人中7割が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小の始業式と入学式が21日、校舎を間借りしている市立飯野川第一小であった。新入生3人のうちの1人、平塚冬真(とうま)君(6)の姉小晴さん(12)は大川小を卒業し、同じ日、大川中の入学式に臨むはずだった。だが、小晴さんの行方は分からない。小晴さんが歌っていた同小の校歌を入学式で聞いた母なおみさん(37)は涙をこらえきれなかった。【百武信幸】
登校前、冬真君は紺のブレザーに背中より大きい青いランドセルを背負ってちょっと緊張気味だった。真新しい教科書をランドセルに入れ、「重い。筆箱とか自由帳とかも入ってるからね」とうれしそう。入学式で名前を呼ばれ「はい」と元気よく返事した。これからは飯野川第一小の児童や上級生と一緒の授業もある。「友達いっぱいできると思う」
卒業式まであと1週間だった。小晴さんは冬真君と同じようにランドセルに教科書や筆箱を詰めて登校した。だが、ランドセルだけが数日後、泥だらけで見つかった。保育所に入る妹小瑛(さえ)ちゃん(2)と合わせ3人一緒の「新入学」になるはずだった。
小晴さんは小瑛ちゃんのおむつを替えたり、冬真君をお風呂に入れたり、面倒見がよいお姉ちゃんだった。なおみさんは悔やむ。
「あの年でしっかりしていたのに、私はいつも怒ってしまって。怒られると思って出てこないのかな」
中学教師の父真一郎さん(44)は冬真君、小瑛ちゃんが赤ちゃんだったころのことを思い出す。2人のかわいらしい姿を見る度、小晴さんが「お父さん、お父さん」と教えに来てくれた。
震災後に大川小の卒業アルバムが配られた。写真の小晴さんが中学の制服姿になるよう、平塚さん夫婦は写真館で合成写真を作ってもらった。真新しい制服は小晴さんの部屋で帰りを待っている。
「お姉ちゃん、天国に行ったんだよね」
普段ははしゃぐことが多い冬真君が口にした。「お姉ちゃんの分まで勉強頑張る」。幼いなりに小晴さんがいないことを受けとめていると平塚さん夫婦は思っている。
入学式でなおみさんは「冬真にとっては晴れの式だから」と泣かないつもりだった。でもできなかった。「校歌を聞いたら『お姉ちゃんがいつも歌ってたな』って思い出してやっぱりだめ」
真一郎さんは、勤務する中学の入学式で司会進行を務めた。
制服姿の女子生徒が小晴さんに重なって見えたという。
□ □
同日、小学校の裏山で3年生だった男児が遺体で見つかった。20日午後には同学年の女児の遺体が学校付近で見つかっており、児童の死者は65人、行方不明は9人になった。【三村泰揮】
毎日新聞 2011年4月21日 20時49分(最終更新 4月21日 21時23分)
http://mainichi.jp/photo/archive/news/2011/04/21/20110422k0000m040112000c.html?inb=yt
東日本大震災:区切り遠く…死亡不明84人の大川小慰霊祭
東日本大震災の津波で全校児童の7割が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小学校(柏葉照幸校長)の合同慰霊祭が四十九日にあたる28日、市立飯野川第二小学校でしめやかに営まれた。
会場の体育館には、亡くなったり行方不明になった児童74人と教職員10人の写真が祭壇に飾られた。PTA会長らが弔辞を述べ、保護者の代表が「助けられず、ごめんね」と無念の思いを語った。
狩野あけみさん(42)は慰霊祭に参列後、6年生だった娘の愛さん(12)が遺体で見つかったと警察から連絡を受け、対面した。「すごく優しくマイペースな子だったので、ずっと見つからないと思っていた。おうちが好きな子でした。よく帰ってきてくれた。『冷たかったね。大変だったけど、よく帰ってきてくれたね』と声をかけました」と話した。妹の孫2人を失った宮城県東松島市の高橋なおさん(73)は「四十九日を迎えても、気持ちに区切りはついていない」と涙ながらに話した。
また、岩手県大槌町の蓮乗寺ではプレハブの仮設本堂が建てられ、集まった遺族ら約100人が持参した骨つぼや卒塔婆に手を合わせた。
蓮乗寺は津波被害は免れたが、直後の火災で全焼。住職の木藤養顕さん(50)は避難所を回って法要を行うことを檀家(だんか)らに伝えた。参列した同町の三浦和子さん(37)は夫を亡くし、父も行方が分からない。「『頑張ろう』という気持ちはまだ遠い。現実を受け止めるだけで精いっぱい。でも残された家族と、この町で暮らしていきたい」と話した。【鈴木梢、山田奈緒】
毎日新聞 2011年4月28日 12時48分(最終更新 4月28日 13時30分)
http://mainichi.jp/photo/archive/news/2011/04/28/20110428k0000e040065000c.html?inb=yt
東日本大震災:子供たちの慰霊碑を…大川小遺族ら市に要望
児童、教職員の死者・行方不明者が計84人に上った宮城県石巻市立大川小学校の合同供養式典が28日行われ、武山剛PTA会長が震災から100日をめどに慰霊碑を建立するよう市側に要望した。
合同式典は四十九日にあたる28日、市立飯野川第二小学校で営まれた。市教委によると、遺族ら約300人が参列。子供2人を失った武山会長はあいさつで「今でも『ただいま』と笑顔で帰ってくるような気がします」と述べた。
保護者代表の狩野あけみさん(42)ら3人が「まだ死を認められない」「早く迎えに行ってあげればよかった」などと涙ながらに話し「最後の一人の不明者が見つかるまで捜索を続けてほしい」と訴えた。
狩野さんは式典後、6年生だった愛さん(12)が遺体で見つかったとの連絡を警察から受け、対面した。「優しくマイペースな子だったので、ずっと見つからないと思っていた。『冷たかったね。よく帰ってきてくれたね』と声をかけました」と話した。
式典後、大川小学校では正門に花を供える遺族の姿もみられた。【曽田拓、鈴木梢】
毎日新聞 2011年4月28日 21時41分(最終更新 4月28日 23時35分)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/archive/news/2011/04/28/20110429k0000m040105000c.html?inb=yt
コメントを書く